鹿島神傳武術の嚆矢
神武天皇即位礼における中臣大祓の儀式

鹿島神流師範家十九代 關 文威

 武甕槌尊が霊剣‘布都御魂’を下賜される際に、それを揮う術技を伝授されていたこと1,2)を示唆する記載として、先代旧事本紀3)の巻第七「辛酉為元年春正月庚辰ノ朔都橿原ノ宮」の条に

 天ノ児屋ノ命孫天種子ノ命解祓天 – 罪國 – 罪之事縁也」
  (天ノ児屋ノ命孫天種子ノ命、天ツ罪國ツ罪ヲ解祓[ハラヒキヨメル]コト、
   コレガ縁[コトノモト]*)ナリ)
*)“中臣大祓の始まりである”の意

とある。

 すなわち、神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)が橿原宮で初代の天皇の位につかれた際に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨に随っていた天児屋命の孫である中臣氏の遠祖“天種子命(天多禰伎命)”に“天上天下の罪を祓い浄める儀式”を司らせたとある。しかしながら、洞院[編](1377–1395)4)に拠れば、神倭伊波礼毘古に付き従っていた“國摩氏”の長者は“伊賀津臣命”である(表1)。また、 “孫”4)は古語の「うま-ご」または 「むまーご」と言い表しており、「子の子」に加えて「子孫」とも意味している。したがって、先代旧事本紀では「天照大神の天孫として,高天原から日向に降り,皇室の祖先になったとされている瓊瓊杵尊に付き添った天種子命の名前を、複数の偉大な業績を成し遂げた國摩氏の何代もの長者名を初代の國摩氏長者名“天種子命”として用いた」のであろう。“先代旧事本紀”は物部氏伝承の歴史書であり、物部氏は大豪族であり、大和朝廷の軍事と刑罰を司っていたので世情に敏かった。したがって、先代旧事本紀に述べられている史実の概要と其の年代の記載は詳細であり、誦習を撰録に基づいた他の氏族の歴史録のよりも史学的に参考となるところが大である。しかし、物部氏伝承の歴史録であるから、他の氏族が主体となっている歴史上の事例(氏名など)を正確に特定することは困難である。この様な立ち入った事例の固有名詞に係わる“当たらずと雖も遠からず”の表記について、古代の歴史書においては「是非に及ばず」と言わざるを得ない。

 一方、その儀式については、同じ巻第七の条に「所謂高皇産靈神・神皇産靈神・魂留産靈・生産靈・足産靈・大宮賣神・事代主神・御膳神今御巫齋矣祭」の記載もあるので、既に八神殿の大祓儀式の原形が当時存在していたことを示している。何故ならば、八神殿の真理に基づく神傳武術の究極は“不立の勝”あるいは“無血の勝利”にあるので、「敵を肉体的にも霊的(精神的)にも制圧すること」に在るからである。ここに、“天上天下の罪を祓い浄める大祓儀式の所作”において、“天上”の場合には祭祀であり、“天下”の場合には軍事である。従って、武甕槌尊が‘布都御魂’の霊剣を高倉下に託された際には、國摩氏の長者へと授けられていたと見做される霊剣を操る神傳剣術とは“功妙剣”に他ならないことに帰結する。

 そして、同じ巻第七の条に、天種子命(伊賀津臣命)は神武天皇の即位礼に際して祝詞奏上の任も果たしていたことが「天種子命奏天神壽詞即神世古事類是也」と記されている。また、「命中臣5)齋部二氏掌俱祠祀之儀者矣」とも記載されているように、“伊賀津臣命”は神武天皇即位日に勅命を蒙り、鹿島神宮の社殿を造立して神官となり、大宮司家として武甕槌尊を祠い(いわい)祀り(まつり)つつ、同時に「子孫代々(國摩氏、中臣氏、藤原氏、鹿島氏)にわたって武甕槌尊から授けられていた神傳武術も同時に継承した由来」が述べられている。さらにまた、天児屋命の子孫であり中臣氏としては祖である“國摩大鹿嶋命”は、垂仁天皇の御代に伊勢国度會郡五十鈴川上に造立された伊勢神宮の祭主も兼任する重責を担っていた史実6)も「中臣氏が中臣5)たる由縁である」として特筆すべきであろう。

引用文献
1) 關 文威:「鹿島神傳の “鹿島の太刀” と “韴霊の法則”」会報72号 (2015).
2) 關 文威:「鹿島神流継承における革新歴」会報68号 (2011).
3) 卜部兼永[寫本](1522):先代旧事本紀(重要文化財指定)
4) 洞院公定[編](永和3年(AD1377)– 応永2年(AD1395):
  新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集(尊卑分脈)
5) ここに記載されている“中臣”は、神武天皇の御代における氏族の称号として表記する
  ならば、“國摩”が正しい。したがって、“中臣の氏(かばね)を示す称号”ではなく、
  “天児屋命(あまのこやねのみこと)の子孫”且つ“神と人との中を執り持つ古代の氏族”
  の意味で記述されたことは明らかである。
6) 北畠親房(1341): 神皇正統記

表1 鹿島神宮の祭官“國摩氏”と帝皇系図
天児屋根尊天照大神
天押雲命天忍穂耳尊
天多禰伎命a瓊瓊杵尊(日向)
宇佐津臣命火遠理命(日向)
御食津臣命鵜葺草葺不合命(日向)
伊賀津臣命b)神武天皇(在位:BC660–BC582)
梨迹臣命《綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化》
神聞勝命崇神天皇
久志宇賀主命垂仁天皇c)(在位:BC29–70)
國摩大鹿嶋命景行天皇d)(在位:71–130)
臣狭山成務天皇
雷大臣e)仲哀天皇(在位:192–200)
大小橋命応神天皇
阿麻毘舎卿仁徳天皇(在位:313–399)
音穂命履中天皇、反正天皇、充恭天皇
阿毘古連安康天皇、雄略天皇(在位:457–479)、清寧天皇
真人大連f)顕宗天皇(在位:485–487)、仁賢天皇(在位:488–498)
鎌子大夫武烈天皇(在位:499–506)、継体天皇(在位:507?–531?)
黒田大連g)安閑天皇(在位:531?–535?)、宣化天皇(在位:535?–539?)、
欽明天皇(在位:539?–571?)
常盤大連h)敏達天皇(在位:572?–585?)、用明天皇(在位:585?–587?)、
崇峻天皇(在位:587?–592?)、推古天皇(在位:592–628)
可多能裕大連 (聖徳太子(574–622)、押坂彦人大)
御食子卿i)舒明天皇(在位:629–641)
大職冠鎌足
 (614-669)
皇極天皇(在位:642–645)、孝徳天皇(在位:645–654)、
斉明天皇(在位655–661)、天智天皇(在位:661–671)
a)天児屋根尊から“中臣大祓”の神授を享ける
b)武甕槌尊から“韴霊の法則”と“功妙剣”の神授を享ける
c)神皇正統記:伊勢神宮の「中臣大鹿嶋命を祭主とす」
d)神皇正統記:國摩大鹿嶋命が「祭官主となりて、鎌足大臣の父(小徳冠)御食子までもその官にてつかえたり」
  記紀:垂仁朝に五大夫に任命された(國摩氏・物部氏・大伴氏・和邇氏・阿部氏)
e)記紀:仲哀天皇・神功皇后時代の四大夫(國摩氏・大三輪氏・物部氏・大伴氏)
f)武甕槌尊から“韴霊の法則”と“神妙剣”の神授を享ける
g)黒田大連の孫の稗田阿札は古事記編纂者。天武天皇舎人。その記憶力は抜群で帝紀・旧辞などの暗誦を命じられ
 元明天皇の代に詔により太安麿が阿礼の暗誦を筆録して古事記を712年に編纂。
h)中臣氏延喜本系帳では中臣連姓初代となっている。
i)小徳冠前事奏官兼祭官。推古・舒明朝に仕えた。伊勢神宮祭官(祭主)
参考文献: 洞院公定[編]永和3年(1377)– 応永2年(1395)
      新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集(尊卑分脈)
(2021年8月8日)


鹿島神傳の本質

鹿島神流師範家十九代 關 文威
 鹿島神傳の本質について、鹿島神流にとって最高の史書とも見なされる兵法傳記には、次のように記されている。すなわち
「吾家之兵法者其先親蒙神授是以曰鹿島神流其後嗣々相承以異名記大略如左
第一 鹿島神流之元祖松本備前守紀政元住于常陸旦暮奉祈鹿島之広前而契神慮一夜夢授賜一巻之書源九郎義経所奉納之書也正是為神伝之故称之曰神陰流
常陸源氏國井景継之後助又大与而也」
とある。

 この記載によれば、鹿島神流の元祖である松本備前守紀政元が源九郎義経によって奉納された天狗書を鹿島大神に賜ったことを公式な建前としている。そして、この神傳に係わる建前をもって、鹿島神傳を名乗る流派すべてが護持する絶対的な根拠として、現代社会にいたるまで一般社会に流布させているのである。
 ここで、鹿島神流一門が忘れてはならない記述部分が「吾家之兵法者其先親蒙神授」であり、「その先、親しく神授を蒙る」の史実内容である。それは、國井家相伝鹿島神流目録にある史記部分「鹿島神流は鹿島神宮に古くから伝はる鹿島の太刀と言ふに創り、大化の改新の頃に神宮司國摩真人なる人此の太刀に初めて創意工夫をこらし世に伝ふるに至りし」にある。この鹿嶋史に記載されている史実「國摩真人から始まった鹿島大神に親しく神授を蒙ること」は、松本備前守紀政元が鹿島神前に奉仕して神示を仰いだとある有名な史実にも繋がり、先師國井善弥先生の熾烈な神道修行にまで続いている。このような鹿島大神に親しく神授を蒙ることは、神傳の明確な理由付けにはなるであろう。

 一方、鹿島神流師範家五代神谷文左衛門尉平真光時代の新陰直心流の時代における傳書に「此術元より神傳なれば,無理なる業は毛頭あるべからず,則ち天然自然の理に随ひ,赤子の心の如く無我無念にして,人生固有の直(すぐ)なる処を以て本意と為すべしとて,真新陰を改め新陰直心流といふ。」の記述がある。この記述には、神谷伝心斎時代における鹿島神傳の直系流派にとって、実に重要な「神傳」の定義が記されている。
 神の存在の如何を問わず、神のような働きが生物を創造したことは確かである。ここで、生物進化論の賛否を問わず、神のような働きの作意によって生物間の関係が系統的に存在する場合には、神に最も近い生物とされるヒトのなかでも生物的・人為的な修飾に染まっていない存在、すなわち神のような働きにのみ支配されている存在は赤子であると見なしたのである。その様な意味での赤子が示す行動は、神のような行動であるとし、その自己保存行動における防御法と攻撃法を習うことも神傳としたのである。

 國井家相伝の鹿島神流の兵法傳記にある「常陸源氏國井景継之後助又大与而也」の記載が意味する神傳の根拠は、重要な口伝として國井家と高弟にのみに受け継がれている。それは、神谷伝心斎時代の新陰直心流の傳書にある根拠と同根であるが、武術の本質部分において同一ではない。
 國井善弥師は稽古において、「此術元より神傳なれば,無理なる業は毛頭あるべからず,則ち天然自然の理に随ひ」を、事あるごとに「術技の遣いは、自然に、自然に」と全く同一に説かれ、指導された。しかし、「神傳なれば,赤子の心の如く無我無念にして,人生固有の直なる処を以て本意と為すべし」のところは、「赤子が示す武術行動は人為的な知恵が介在しない神授の業であるとし、その防御法と攻撃法を見習うべし」と説かれた。そして、鹿島神流の技における位太刀の操法原理は、赤子が頭を叩かれようとする際に示す物理学的・力学的な動作そのものであると述べられている。

 形而上の修行も徹底的に為された善弥師が、この新陰直心流の時代における鹿島神傳の傳書が示す形而上面の伝承に全く触れられなかったことが、今後の我々が追求すべき研究課題として、修行の際には吟味したいものである。

(2006年2月25日)


「真心妙剣の極意“圓橋”」

鹿島神流師範家十九代 關 文威

 “真神妙剣”(“真心明剣”とも表記する)は、松本備前守紀政元が会得した“圓橋”の極意に基づいて、小笠原源信斎源長治によって命名された“等類の真理を共有する一連の武術技”の総称である。“真心明剣”とは“気劔軆一致一円の真理が真武業として具現させる”真理を示している。すなわち、小笠原上総入道源玄信義晴(*)直筆の「真之心陰兵法目録」記載様式(図1)の一例からも明らかな様に、真新陰流系統の免許状には“功妙剣”と“神妙剣”とともに併記されている。ここに、
図1 小笠原上総入道源玄信義晴(*)直筆の真之心陰兵法目録の文末部分における「光明剣、神妙剣、真心明剣」

真之心陰兵法目録
                             

       “一圓相” 不行 不帰 不留

   圓飛

    参學
一  一刀両断
一  右轉左轉
一  長短一味

    五輪擱
一  和ト
一  秘勝
一  八重垣
一  按車
一  五関一劔

    丸橋

    天狗集
一  岩切
一  洞入
一  逆風
一  露之打
一  乱車
一  高山
一  乱切
一  玉簾

    目付
    水月
    懸待用
    種子
    法心
    相分
    西江水
    打留太刀

一  光明剣
一  神妙剣
一  真心明剣

 寛文拾年戌七月

小笠原上総入道源玄信     
義晴(花押)

の如くである。
 この真之心陰兵法目録における“光明剣”は、“功妙剣”が鹿島神道流における正式の表記法である。そして、功妙剣と神妙剣とを包括させた真心妙剣が啓かれる際に、“包容同化”に係わる武人感性の次元を表裏一体の極意において特に深化させるように工夫されている。したがって、鹿島神流においては、煽籠手(アオリゴテ)や早抜不動剣(ハヤヌキフドウケン)などの剣術技に相当する業の総称である。

 これらの剣術技の仕掛けにおいては、相手の反射神経を刺激して“獣の心(人の動物としての本能)”を衝動的に目覚めさせる戦略をもって、太刀の発顕と遂進を國井善弥師の所謂「剣先に働きを付ける(太刀に閃く動きを与える)」ように執行することが肝要である。相手が達人や名人の位にあり、咄嗟の“功妙剣”を遣って反撃にくるや、“相手の‘返し技’を遣われる動作”と巴状に“太刀の遂進を‘丹田から発する気の流力[武息の強い呼気]’にのみ(物理的な腕力を一気に落とす)に依存する動作”になるように、太刀の操作を瞬時に移行することを極意とする。相手の‘返し技’に太刀を落とされるや否や、瞬時に“武息の強い吸気”に転じて、“真心妙剣”の骨頂の“丹田から発する気の流力”と“物理的な腕力”とを合せた柔術技の遣いに移るところに真武技としての妙味がある。

 一方、神谷傳心斎平真光による“鹿島神流”の別号“直心流”の由来は、“鹿島神流”元祖の松本備前守紀政元が会得した重要な武術真理の一つに係わっている。その“直心”とは“即心是神”であり、“直心”を具現する最重要の剣術技として挙げている“圓橋”は“真心妙剣”の真髄を具現している。神谷傳心斎は“圓橋”の由来について、“紙屋傳心頼春”の隠居名で、直心流劔術秘書(紙屋,1663)に次の逸話を披露している。すなわち「此ノ形ヲ圓橋ト云フハ、ソノ昔、松本氏ノ兵法奥儀ヲ極メント百日詣ノコト有リシトキ、種々様々ノコトドモ有リシ中ニ、或ル日ノ小サキ川ヘ行キカカリタルトキ、其ノ川に円キ木ノ橋一本架カリテ有リケル処ヘ盲人来リ杖ヲ持チチョト其ノ橋ヲ探リ、ソレヨリハ杖ヲ横ニシテスラスラト気バカリニテ橋ヲ渡リタル処ノ気分ヲ見、感慨シテアノ処コソ真ノ気分ノ処也ト考ヘテ、此ノ形ヲ作リタルト云、故ニ我ヲ捨テ切リテ一気ニテ勤メル処ハ、此ノ形ホド能キハ有ルベカラス」とあり、さらに真の“圓橋”の術技形の遣いについて「シカシナガラ未熟ニシテハ勤メ難カルベシ、真ノ円橋ノ処ニテ考ヘテ工夫モ有ルベシ、スラスラト進ミ行キテ、小太刀ノ先ヲ向ウノ太刀ヘチョト当テルハ、橋ニ杖ヲアテタル心ニテ、アトノ処、別而一気ニテ勤メテ渡ル事、大事ナルベシ」と82歳のなった寛文3年に自ら記している。
 “スラスラト気バカリニテ”とは、無の境地(我ヲ捨テ切リテ一気ニテ勤メル処)になって「己の八神殿の位を高揚させて“神座の境地”をもって“武人の境地”を祓うことにより“包容同化の誠心”を眉間に感知(螢然以て円く、輝然以て明らかなり)」できるようになれば、“破邪顕正を顕現する八神殿の牽引による間詰(待たず、慮らず、思わず、止らず)”を忝うするに至ることを示している。鹿島神流の道歌の例を挙げれば「立ち向かふ 刃の下は地獄なれ 踏み込んでみよ 極意もあれ」の境地による間詰である。そして、“向ウノ太刀ヘチョト当テル”手之裡とは鹿島神流の道歌「吹ききたる 風を柳と吹き払ひ 追風に乗りてぞ 勝はあるなり」とすれば、自ずと“攻めるに非ず(撃ち込むに非ず)、守るに非ず(受け止めるに非ず)”の技の遣いであることを示している。
 これに対して、“直心影流”秘傳書(極意傳書)になると、この逸話の核心を上記のような“神則心”の形而上真理としては捉えず、“術技法”の形而下真理として「盲人ノ一本橋ヲ渡ル時 杖一本ヲ橋ノ脇ヘ当テスリナガラ 直ニ向ヘ渡リタルト云心持ナリ、夫故 丸橋ト謂也」と述べている。すなわち、ここに述べられている“心持”とは、勝つための最適な技“芯抜きの技巧”を解説することに徹底しており、松本備前守紀政元が会得した“武人の境地”の教示とは程遠くなっている。この筆者は「剣術における究極の境地は禅の無念無想の境地と同じである」と“剣禅一致”の境地に達したと思い込んでいる剣客のようであるが、“圓橋”の創案由来に係わる武術真理の内証すらなく、松本備前守紀政元の神武ならずとも神谷傳心斎平真光の真武にさえ「我関せず焉(ワレカンセズエン)」として理解しようとする知性すら感じられない。

圓橋(マルバシ)

 “圓橋左”においては、仕太刀は小太刀や脇差を順手に持って(あるいは短刀や懐剣を逆手に持って)無構にとり、上八相構の打太刀と両者とも二歩の間合にて対峙する。仕太刀よりスラスラと「我ヲ捨テ切ル」如き無心にて間を詰めて、打太刀が“転(マロバシ)の勢いで頭部を唐竹割に斬り下ろす太刀”に対して、小太刀の物打部分を額前上方で下方より「チョト当テ」つつ一之太刀 三之位に競り込んで、柄から離した右手で柔術の組業“捕手返”の第二番目技である“抜手絞(ヌキテジメ)”の技を遣う。すなわち、「仕太刀は左足を肩幅だけ左側に踏み込みながら右手で“真抜き”に入り(間詰においては、足運びは一之太刀 三之位の遣い同様に遣い、腕の動作は相手が斬り込んでくる太刀を下方から額前で拝むが如く受け当てたことを掌で感知するや、右手は手首関節を中心軸として指先が下方へ‘素早く右回り’に小太刀の柄を擦り抜けさせて、小太刀は右手から離した状態《剣術として‘死物[シブツ]’》として、右手が無刀状態で‘芯抜’技《柔術としての技》を遣う)、相手の右額を掌で突き込みながら頭に左方向の回転を与える。打太刀が頭を廻されて後向きになる間に、仕太刀は右足を打手の両足の間に踏み込みながら、小太刀を持ったまま(あるいは、小太刀を“チョト当てた時に手放しても良い”)の左腕を中段構に前方に張り出す。打太刀が後向きになって止まる直前に、頭に回転を与えている右手を手前に引き付けると、打太刀は仕太刀の左腕に背中を預けて後中立になる。
 この技は、松本備前守紀政元の自筆の“天狗書”には「むとうのいりみ」として記載されており、類似の応用技が「内いりみとりて返」(浮舟に斬り止め、直ちに面を斬り込んで来る相手に対して、一之太刀 一之位の場所に飛び込みながら、左手で芯抜に入りつつ、相手の左籠手を制して、同時に右手で相手の左肘を制しながら柔術の巻落をかける。或いは、一之太刀 二之位を遣う場所に飛び込みながら、右手で芯抜に入り、相手の右籠手を制した後、間髪を入れず龍尾の技を遣い相手の顔面に拳を打ち込む。)としても存在する。
 「むとうのいりみ」に係わる逸話として、國井善弥師は「剣道大会を観戦していたところ、中山博道が試合相手に竹刀を巻き落とされた瞬間『しまった』と言って、棒立ちになった。儂ならば『しまった』と言う暇があれば、相手の手元に飛び込み、相手を投げ飛ばして見せる」と話されて、その際に遣うべき技として「むとうのいりみ」の稽古を弟子どもが散々稽古させられた。

 “圓橋右”の典型技は、組業“倒打”における「煽籠手」であり、松本備前守紀政元の自筆の“天狗書”には「かんむりのまい」と記載されている。

 これら“鹿島神道流”に限りなく近い流派系統においては、松本備前守が会得した“圓橋”の極意伝承は断片的ながらも“神武”または“真武”の真理を留めている。しかし、総合的な技の遣いにおいては「未だし」の域を脱してはいない。上記に示された“圓橋”技の遣いにおける根本的な欠点として、“直心流”においても“直心影流”においても、「相手が続飯付けの手ノ裡の遣い手である場合の斬り込みに対しては、一本橋の上で如何様な体捌きをもっても凌ぐことは不可能であること」が挙げられる。この場合は、唯一の捨身技として“見切り”の遣いになろうが、相手が達人ならば“見切り”に対して「しめた」とばかりに“奮迅”などの技で追い撃ちを掛けられるであろう。ここに、“鹿島神道流”武家系嫡流の國井家相伝“鹿島神流”において最高位の秘伝“一ノ太刀 四之位”の遣いが存在する。それは「相手との線上から足を動かさずに体を開いて、一ノ太刀を遣うこと」であり、その極意を二つの道歌「剣の道 斬るな斬らるな 臆するな 行けよ戻るな 道は一筋」の仕掛けを用いて「出るとみて 起り打ちくる そのところ 体を開いて そのいちで打て」の技を極めるようにとの啓示がある。前の道歌では、「臆するな」に神谷伝心斎の真武の理想である“直心”を具現する無の境地を、「行けよ戻るな」に“圓橋”技の遣いを暗示している。そして次の道歌では、「出るとみて」に先ノ先勝を、「起り打ちくる そのところ」に“圓橋”技の遣いを、「そのいちで打て」の「いち」に“一”と“位置”とを暗示しているのである。このレベルの極意は、國井家が免許皆伝の印可ではない目録免状を許した門人にさえも伝授していたことは、例えば國井善弥師と佐々木正之進との立合でも明らかであろう(国井、1960)。
 師範家五代の神谷傳心斎が信奉した八神殿とは、彼の直筆になる直心流兵法目録から明らかなように、神仏混淆の教説に基づいて“神座の境地”を“佛座の境地”に差し替えている。そのうえ“方圓ノ極”(關,2009)が大日如来の佛座として描かれている。したがって、直心流兵法は、大乗的な神武を放棄して、小乗的な真武としての存在を表明したと見做し得る。これに対して、師範家四代の小笠原源信斎源長治の直筆になる真新陰流免許目録での八神殿の表示は、師範家三代の奥山休賀斎平公重の直筆になる神影流免許目録と同じく、神座名記入のない“一圓相(イチエンゾウ)”(図2)として表している。その“一圓相”(八咫鏡の姿ではない)には、“八神殿の境地”を映している心鏡の証として、高御産日神の神座域に“横一の文字”を記して、「體ト太刀 一致ニツレテ 円丸ニ 心モ丸ク 是ゾ一円」との釈義道歌も詠われている。八神殿における神々の神座の位置は神武伝承においての極意傳極秘事項なので、口伝としてのみ伝承されるべき事柄であった。このように、鹿島神流の武術は師範家の四代から五代にかけて本質や内容が神武から真武へと一変し、師範家の三代から五代にかけての釈義が日本神道から儒教(特に朱子学)や仏教の表記へと徐々に変化しているのである。
図2 小笠原上総入道源玄信義晴(*)直筆の真之心陰兵法目録の文頭部分における「“方圓ノ極”を示す“一圓相”」

 斯くの如く、“一圓相”の本来の姿は、まさしく鹿島神道流武術における“方圓”そのものである。そして、如何なる釈義の形態を時代に即して執ろうとも、鹿島神傳神武の天性は「一たび発しては変転窮りなく、結んでは方圓の極となる」ことを示している。

 鹿島神流師範家四代の小笠原金左衛門尉源長冶(天正二年[1574]〜寛永二十年[1644])は後に源信斎または玄信と号したとされている。この“真之心陰兵法目録”の筆者である小笠原上総入道源玄信義晴は、彼の伝書の記載年月が“寛文拾年戌七月(1670)”であることから、小笠原金左衛門尉源長冶とは明らかに別人である。しかし、小笠原源玄信の名跡を継承して“真之心陰兵法”を名乗ることが出来るほど、武術において卓越した存在である。

参考文献:

  1. 小笠原上総入道源玄信義晴(1670):真之心陰兵法目録、和綴本(小田原市図書館蔵「藤田西湖文庫」)。
  2. 紙屋傳心頼春(1663):直心流劔術秘書、和綴本(筑波大学図書館蔵)。
  3. 国井善弥(1960):昭和の武道修行日記、歴史読本、十一月号、144-149頁。
  4. 關文威(2009):鹿島神傳武術、杏林書院、123頁。
(2011年11月20日)


古武道振興会の発足と国井善弥師

史料編纂局長 大沼 宜規
 戦前、内務省警保局長、貴族院議員などを歴任し、古武道振興会初代理事長・第二代会長であった松本学氏は、その日記(国立国会図書館所蔵松本学関係文書637「日誌」)のなかに古武道振興会発足時のことを記しており、そこから国井善弥師の深い関与が見て取れる。

 昭和9年12月17日条に、
天気が好い、須磨子は大賀彊二さん六十一の祝宴に招かれて石原初子と一緒に出かけた、宇野君来る、国井道之来る、(後略)

とあり、さらに、昭和10年1月21日条には 
午後二時国井、川内を招き、古武道振興会の件につき相談す、最初に会合する人々を極める、(後略)

とある(川内は念流の川内鉄三郎氏)。

 同年2月3日、3月3日の創立発起人会を経て、4月1日、日比谷公会堂において流祖祭幷奉納古武道各流型大会が開催された。その後、古武道振興会に参加した各流派は、全国各地において次々と演武会を開催していく。

(2019年3月17日)


上泉伊勢守藤原秀綱
恐神字改神陰而称乎新陰

「關文威(2009):鹿島神傳武術、杏林書院、61-69」 に転載。


八寸の延矩
小笠原金左衛門源長治後号源信斎兵法熟練而故在入唐更得妙術ノコト

「關文威(2009):鹿島神傳武術、杏林書院、71-76」 に転載。


正傳 
先師 國井善弥先生

「關文威(2009):鹿島神傳武術、杏林書院、81-94」 に転載。


鹿島神流における日本伝統文化としての武術形稽古法

「關文威(2009):鹿島神傳武術、杏林書院、96-99」 に転載。


丹田の練成、気合と武術技の遣い

「關文威(2009):鹿島神傳武術、杏林書院、103-106」 に転載。


極意傳「目付のこと」の科学的真実

「關文威(2009):鹿島神傳武術、杏林書院、99-101」 に転載。


極意傳「吟味のこと」

「關文威(2009):鹿島神傳武術、杏林書院、101-103」 に転載。