鹿島神流の武術は、鹿島神宮神官の“國摩真人”が鹿島大神の神降ろしを享けて、武甕槌命の祓太刀「鹿島の太刀」を武人の戦闘術「神妙剣」に改変する際に創案した“韴霊の法則”の真理に基づいています。この國摩真人に関しては、その高い知名度の事由から「古墳時代の終末期に顕宗天皇(在位:485〜487)や仁賢天皇(在位:488〜498)から大連(オオムラジ)に任じられ、祭祀も命ぜられた“真人大連”(中臣氏系図参照)と同人」である可能性が有力視されています。さらに、鹿島神傳武術を継承する武家が誉れとして寄せている最大の関心事には、國摩真人の一族の“中臣鎌足”らによって“韴霊の法則”の誠心を社会に具現させる「大化の改新」が飛鳥時代における政治改革の黎明期に敢行されて、最初の元号“大化(645〜650)”を掲げた日本の国体が確立されたことです。この日本武道史における最も重要な顛末は、鹿島神流師範家相伝の鹿島神流免許皆伝巻(現存する最古の伝書:國井大善源栗山による天明期の写本)に「、、、 鹿島神流は 鹿島神宮に古くから伝はる鹿島の太刀と言ふに創り 今より千二百年前 神宮司国摩真人なる人 此の太刀に創意工夫をこらし世に伝ふるに至りしが、、、」と記されています。この記載を裏付ける有力な史料の一つとして、江戸後期に鹿島神宮の神官であった北條時鄰(1833)の著書「東國名所圖會 鹿嶋記」があります。その実体の詳細は鹿島神傳武術の正統流派(東、1968)にのみ最高位の秘伝として伝承されてきています。その伝承に係わる傳書の記載は、他流の武芸者には勿論のこと、正統流派内の免許皆伝を受領した高弟にさえも難解です。このように極意に係わる武術伝承は、代々途切れることなく、代毎も年月を充分に掛けて忍耐強く“手から手へ(実技の伝承)”と“口から口へ(武道理論の伝承)”と営々と伝授されない限り、その神髄は次代に継承され得ない形式を執ってきたのです。
鬼一法眼剣術稽古場之図の一部 “御曹司 牛若丸” (玉蘭斎貞秀 画):
本文中の「源九郎義経(図)の奉納するところの書」とは、鹿島神宮の見解として「太公望の六韜三略(りくとうさんりゃく)の伝である。これは鬼一法眼(きいちほうげん)から義経(牛若丸)へ伝授した巻物である。(東実《1968》:鹿島神宮、学生社、181頁)」とされている。
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時代は下って16世紀前半頃の戦国期、鹿島神宮の神職にあった松本 備前守紀政元(まつもとびぜんのかみきのまさもと)は神武の顕現に志しました。これを知って鹿島に赴いた國井 源八郎源景継(くにいげんぱちろうみなもとのかげつぐ、鹿島神流初代宗家)の支えのもとに鹿島の神前に奉仕して神示を仰ぐ日々を経て、備前守は一之太刀を頂点とする武道大系としての鹿島神流を完成させました。その経緯を“國井家相傳 鹿島神流兵法傳記”には「第一 鹿島神流の元祖は松本 備前守紀政元なり。常陸に住し、旦暮に鹿島の広前に奉祈して、神慮に契(チギ)り、一夜、夢に一巻の書を授かり賜る。源九郎義経(図)の奉納するところの書なり。正しく是れ、神伝なる故に、これを称して神陰流と曰う。常陸源氏なる國井 景継の後助、また大いに与(クミ)すなり。」と記載されています。この“後助”が意味する史実とは「平安時代中期から鎌倉時代初頭にかけて常陸國の国司であった國井家に当時の鹿島神宮の世襲神官(社家)から伝授されていた國摩真人の“韴霊の法則”を松本備前守紀政元に披露したこと」とされています。
この後、鹿島神流の宗家は代々國井家に、業は代々師範家に引き継がれてゆきますが、第十二代國井大善の代に両家は統一されました。その流れの中には、新陰流の開祖として有名な上泉伊勢守藤原秀綱(かみいずみいせのかみふじわらのひでつな)や、若年時代の徳川家康に鹿島神流の奥儀を伝授した奥山休賀斎平公重(おくやまきゅうがさいたいらのきみしげ)、中国拳法を古流柔術の一部に鹿島拳法として取り入れた小笠原源信斎源長治(おがさわらげんしんさいみなもとのながはる)らの名も見られます。江戸時代の國井家は磐州磐前郡船尾郷に道場を構えて、家伝の武術を継承することに努めるかたわら、磐州や常州に逼塞して捲土重来を期して実戦武術の修業に励んでいた反徳川幕府の郷士や浪人(特に、佐竹義宣が常陸国から出羽国へと国替えの際に、藩主に随行できなかった家来衆;それらの子孫の語部が茨城県北部に多く現存している)を密かに指導していました。この武術指導体制は明治維新まで続きましたが、松平定信の武芸奨励策によって武術が盛んになると、江戸幕府伊賀組同心の平山行蔵などの幕臣からばかりか、水戸藩家臣(新陰流、真陰流、諸派鹿島神道流や為我流など)や江戸の各藩勤番侍(主に直心影流長沼派の家臣が対象であり、総本山の沼田藩の他に土浦藩、田中藩、伊予松山藩などでも多くの門下を輩出している)からも実戦武術の指導を求められるようにまでなりました。昭和に至って第十八代師範家國井善弥の登場により、徹底的な業の工夫と再構成、数々の武勇伝、さらには戦後日本における日本武術の復興への尽力などを通して著しく注目を集めるようになりました。
このようにして第十九代師範家の關文威に至るまで古流武術の本質を保ちつつ洗練されてきた鹿島神流の奥義は、「惟神なる日本本来の大道『初めにして体を整え、中にして心気人倫を養い、極めては宇宙創元の理を悟るに至る』」という言葉に凝縮されています。これを「現代」という社会環境の中で正確に伝え、武術以外の形でも社会に還元できるように、現在の鹿島神流は鹿島神流武道連盟による国内外の高校・大学あるいは公的機関での講武を軸として活動の拠点を世界中の支部・支署に展開し、日本武道の原理、剣術、柔術、抜刀術、長物武術などの総合的な教育を行なっています。
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