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この後、鹿島神流の宗家は代々國井家に、業は代々師範家に引き継がれてゆきますが、第十二代國井大善の代に両家は統一されました。その流れの中には、新陰流の開祖として有名な上泉伊勢守藤原秀綱(かみいずみいせのかみふじわらのひでつな)や、若年時代の徳川家康に鹿島神流の奥儀を伝授した奥山休賀斎平公重(おくやまきゅうがさいたいらのきみしげ)、中国拳法を古流柔術の一部に鹿島拳法として取り入れた小笠原源信斎源長治(おがさわらげんしんさいみなもとのながはる)らの名も見られます。江戸時代の國井家は磐州磐前郡船尾郷に道場を構えて、家伝の武術を継承することに努めるかたわら、磐州や常州に逼塞して捲土重来を期して実戦武術の修業に励んでいた反徳川幕府の郷士や浪人(特に、佐竹義宣が常陸国から出羽国へと国替えの際に、藩主に随行できなかった家来衆;それらの子孫の語部が茨城県北部に多く現存している)を密かに指導していました。この武術指導体制は明治維新まで続きましたが、松平定信の武芸奨励策によって武術が盛んになると、江戸幕府伊賀組同心の平山行蔵などの幕臣からばかりか、水戸藩家臣(新陰流、真陰流、諸派鹿島神道流や為我流など)や江戸の各藩勤番侍(主に直心影流長沼派の家臣が対象であり、総本山の沼田藩の他に土浦藩、田中藩、伊予松山藩などでも多くの門下を輩出している)からも実戦武術の指導を求められるようにまでなりました。昭和に至って第十八代師範家國井善弥の登場により、徹底的な業の工夫と再構成、数々の武勇伝、さらには戦後日本における日本武術の復興への尽力などを通して著しく注目を集めるようになりました。 このようにして第十九代師範家の關文威に至るまで古流武術の本質を保ちつつ洗練されてきた鹿島神流の奥義は、「惟神なる日本本来の大道『初めにして体を整え、中にして心気人倫を養い、極めては宇宙創元の理を悟るに至る』」という言葉に凝縮されています。これを「現代」という社会環境の中で正確に伝え、武術以外の形でも社会に還元できるように、現在の鹿島神流は鹿島神流武道連盟による国内外の高校・大学あるいは公的機関での講武を軸として活動の拠点を世界中の支部・支署に展開し、日本武道の原理、剣術、柔術、抜刀術、長物武術などの総合的な教育を行なっています。 |
| 宗家 | 師範家 | |
|---|---|---|
| 初代 | 國井源八郎景継 | 松本備前守紀政元 |
| 二代 | 國井源五郎源景清 | 上泉伊勢守藤原秀綱 |
| 三代 | 國井弥太郎源政輝 | 奥山休賀斎平公重 |
| 四代 | 國井弥五郎源義時 | 小笠原源信斎源長治 |
| 五代 | 國井弥司郎源善政 | 神谷伝心斎平真光 |
| 六代 | 國井弥八郎源政家 | 高橋直翁斎源重治 |
| 七代 | 國井小五郎源政氏 | 山田一風斎源光徳 |
| 八代 | 國井新五郎源氏家 | 長沼四郎左衛門藤原国郷 |
| 九代 | 國井善八郎源隆政 | 長沼四郎左衛門藤原徳郷 |
| 十代 | 國井新八郎源義継 | 本岡忠八藤原因質 |
| 十一代 | 國井源太郎源義利 | 小野清右衛門平成誠 |
| 十二代 | 國井大善源栗山 | |
| 十三代 | 國井善太郎源栗山 | |
| 十四代 | 國井善太夫 | |
| 十五代 | 國井善五郎 | |
| 十六代 | 國井新作 | |
| 十七代 | 國井英三 | |
| 十八代 | 國井善弥源道之 | |
| 十九代 | 國井しず | 關文威 |
| 二十代 | 國井道友 | |
| 二十一代 | 國井正勝 | |